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Episode-1
~ Opening Game ~

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 会話は長続きするようなものではなかったため、マスターが遠まわしに話を切り上げる。
 「ヴェンツェルくんが帰った後で良かった……彼は、その事件の話題が嫌いだから、ここの皆も話さないようにしてたんです」
 「そうか……すまない、訊かない方が良かったか?」
 「別にいいですよ。知らなかったなら仕方ないし、貴方のような人がヴェンツェルくんの近くにいたことってなかったから、珍しいものを見させてもらいました」
 マスターは先ほどよりも穏やかな表情をローデリヒに向け、ほんの数滴ほどしかなくなった空っぽのビールグラスを下げた。

 「もし、またここに来られた時には、ヴェンツェルくんに挨拶してやってください」
 「そうしよう。事件のことは抜きにして、彼は噂のチェスプレイヤーらしいからな。次はぜひとも対局したいものだ」
 チェスを介して相手と向き合う職に就く者として、不敵な笑みを浮かべたローデリヒに対し、マスターもにこやかな顔を向けた。
 「期待していますよ。ヴェンツェルくんに勝った人なんて、見たことありませんから」

 予想外の発言だった。聞き返す間もなくローデリヒの片方の口角がほんの少しだけ下がる。かなりの実力者だ、などと大まかに言われるのではと勘ぐっていた所を、“見たことありません”とハッキリ言われたのだ。ローデリヒはプライドを傷つけられまいと、額に汗をかく前に強気に言い返した。
 「へえ……それは、楽しみだな」
 「こちらも楽しみにしています」
 マスターの期待を会話の締めにして、ローデリヒは席を立った。代金を支払い、軽く手を振って店を出る。空はすっかり夕焼け色に染まっていた。
 ラーテノーの道を歩むローデリヒの足取りはどこか軽いようにも思えたが、胸の内にはドッと重く圧し掛かるものがあった。

 どうしてもヴェンツェルが気になる。どうしてもアンパッサン事件が気になる。
 人生で一番興味をそそられた瞬間のローデリヒの笑みは虚空だけが見ていた。


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この作品はフィクションです。
実在する人物や団体、事件や情勢などとは関係ありません。


 

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