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Episode-2
~ Middle Game ~

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 【2020年、4月下旬】

 革靴の踵が心地よい音を奏で、夕暮れの道路を歩く男、ヴェンツェルに華やかさを添える。気だるげな歩き方の所為か何十歩か進む毎に靴底を引きずるような音も混じるが、ヴェンツェルは全く気にしない。
 チェスセットが入った重いケースと少しの金を持ち、居心地の良い場所で駒と睨みあう為に真っ直ぐに歩く。

 ヴェンツェルにとっての居心地の良い場所というものは、その時の気分によって決まるが、結局のところ向かったのは馴染み深いあの酒場だった。
 前回行った時は、不幸にもしつこく対局を申し込んで来るような初対面の男に絡まれ、ヴェンツェルはやりたかった事が出来ないでいた。きっと観光客か何かが話しかけてきただけで、もう会うことはないだろう。そうやってこの件を忘れようとした。
 そうこうしている内にヴェンツェルは酒場に辿り着く。取っ手を引いてドアを開け、かれこれ16年も通い慣れ親しんだ風景に溶け込んでいく。
 相変わらずの喧騒の中を、それとなしに突き進む。今回はテラス席には行かず、奥にある薄暗くこじんまりとした空間の席に腰を据えた。
 チェスセットを取り出そうとケースの鍵を開けた、ちょうどその時だった。
 「ヴェンツェル!」

 何やら聞いたことがある声で名前を呼ばれた。常連のおじさんやマスターの声ではない低い声。そこまで考えてから、ヴェンツェルは開錠したばかりのケースの鍵を閉め、少々もたつきながら席を立った。しかし行動が遅かったか、目の前を声の主、ローデリヒに立ち塞がれていた。
 「ヴェンツェル、驚くな。私は君とチェスがしたくて堪らなくなってしまったから、またここに来たんだ」
 最近見たしつこい男を前に、ヴェンツェルは凄く嫌そうな顔をした。

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 「どけ」
 「どけ、は、ないだろ……! いや、あれから君の事を調べてみた。安心しろ、例の事件じゃないぞ。昔、かのフロレンツ・ハイアーマンとの対局でツークツワンクに陥っても、見事脱して打ち負かしたという天才少年チェスプレイヤーだったそうじゃないか! ハイアーマンはイタリアでも有名だったから知ってるぞ。だからヤツが子供に負けるなんて、有り得ないことだと思ってたんだが、まさか当時の君が快挙を成し遂げていたなんて……!」
 なんとも輝かしい瞳のローデリヒが、矢継ぎ早に長々と語りかけてきた。その間にもヴェンツェルは退路を塞がれており、棒立ちの状態が続いていた。
 ローデリヒを睨みつける狐のような顔は、酒場にいたほとんどの人の注目の的となったが、当然ヴェンツェルは気にも留めていない。


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この作品はフィクションです。
実在する人物や団体、事件や情勢などとは関係ありません。


 

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