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Episode-2
~ Middle Game ~

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 「ところで一つ気になったんだが、なぜ君の名前が書かれた棋譜には、ほとんどに疑問手が記録されているんだ? 例えば過去にあったパスカル・エンゲルス戦でも、君は初手で白Sh3(シュプリンガーエイチスリー※)と差している。パリ・オープニングなんて普通やらないぞ? それで勝ってるなんて、君は天才か?」
 「どけ」
 ヴェンツェルは一刻も早く逃げたかった。心無く3回目を言う前に、ローデリヒにはどうしても退いてもらいたかった。

 「褒め足りないか? だったらコレだ。週刊誌に掲載されてたインタビューも見た! 去年7月のコラムは賛否両論を巻き起こしていたから全く見てなくて、君が取り上げられている事を知らなかった。友人から借りて見てみたら確かに酷いものだった、そりゃ酷評が上がってもおかしくないなと思ったさ。だが、おかげで君の一言がとても際立って見えた! ほら、何だっけな……悪手を打たないといけない状況を……」
 「“悪手を打たないといけない状況を突破する。これは、前に進む意思があるからこそ出来る”」
 「それだ! こう、本人から言われると迫力が違うな!」
 「どけ」
 我慢の限界だった。ヴェンツェルは全く同じセリフを更にキツく言い放ち、無理やりにもローデリヒを押し退けようと手を伸ばした。
 「わ、わかった」

 ローデリヒは焦りながら後退し横にずれる。ひとつ溜息を付き、開けられた道を歩くヴェンツェルは、何も言わずそのまま酒場を出て行ってしまう。
 ドアが開かれる度に入り込む風のように、ヴェンツェルの態度は決して暖かくなかった。
 そんな二人の様子を遠くから見ていた酒場の常連客同士が、ローデリヒを見てぼそぼそと話し合っていた。
 「なんか最近出没するようになったよな、あのオヤジ」
 「お目当てはここのしょっぱいソーセージかと思ってたけど、まさかヴェンツェルの野郎とは」
 「誘ったって滅多にノッてくれないぜ~アイツ。このままヴェンツェルが断り続けたらパーペチュアル・ドロー(先日手からの引き分け)だな」
 「アイツのことだ。すぐに成立する」
 賑やかな酒場の中では、噂話はいとも簡単に搔き消えていく。

 ※シュプリンガーはドイツ語でナイトの事。「白Sh3」は「チェスボードのh3のマスに白のナイトを置いた」という意味になる。


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この作品はフィクションです。
実在する人物や団体、事件や情勢などとは関係ありません。


 

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