
Episode-1
~ Opening Game ~
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ローデリヒはヴェンツェルの背中を追いかけてやろうとしたが、さすがにチェスの為だけに出会ったばかりの男に付きまとうのもどうかと踏みとどまる。同時に、重要な事を思い出した。
「しまった……名前、聞いてないな」
ぽつりと呟くと、ローデリヒはテラス席から店内へ移動し、カウンターの向こう側にいたマスターに尋ねてみた。
しかしタダで訊こうとはしなかった。店に来たからには注文も欠かせない。適当に黒ビールを頼み、二口ほど喉に通した所で本題に入る。
「つかぬことを訊くんだが、先ほどチェスをしていた帽子の彼はここの常連なのか?」
「ええ、昔からいますよ、ヴェンツェルくん。あれ、もしかしてご存じない?」
「イタリア暮らしの時間が長くてね……ドイツ出身の癖に母国の事を知らないのさ」
溜息と自慢を交えながら会話を続けようと、次の言葉を喋ろうとした時だった。
「待て……ヴェンツェルって、ヴェンツェル・ツア・ミューレン? あの、アンパッサン事件の?」
ローデリヒは聞き覚えのある名前を言われたことに気が付いた。
途端に場の雰囲気が一変した。初めて知ったようなローデリヒのリアクションは、カウンター周辺の人たちを呆然とさせ、後方ではひそひそ話が始まっていた。マスターも悄然とした面持ちをする。
話し始めるまで数秒の間が開いてしまうが、二者間の沈黙を先に破ったのはローデリヒだった。記憶の引き出しを開けていくように、2年前に見ていたテレビ番組の内容を喋っていく。
「私が帰国してすぐだったか……たぶん数年前だ。何かのテレビ番組で、アンパッサン事件の特集をやっていたと思う。確か、ヴェンツェルという名前を言っていた気がするんだ」
マスターは何も言わず、ただ悲しそうな表情でじっとそれを聞いてくれた。
ふと窓の方に目線を逸らしたマスターは、周囲に気を使うようにローデリヒの近くへと歩み寄ると、口元に手を当てながら小声で話し始めた。
「ヴェンツェルくんは昔、その事件で怪我をさせられたんですよ」
「まさか? ウソだ、ついさっき見ていたあの彼が? ああ、気付かなかった……以前見た写真と大違いだった」
ローデリヒがそう言うと、マスターは自身の顔の左側を指さした。そこは、ヴェンツェルが眼帯と前髪で覆い隠していた箇所だった。
「ええ、ここを傷つけられてしまったんです。メディアは事件当時のヴェンツェルくんの写真ばっかり使っている……驚くのも無理はない」
思いもよらぬ情報がローデリヒの頭の中になだれ込んで来た。その衝撃を、黒ビールを片手に静かに受け止める。