
Episode-5
~ Key Square ~
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「どうやったら完璧で美しい逆転勝ちが出来るか、小さい頃に駒に触れてから今まで何十年もずっと探し求めてる。そういった探究とか、なんか、それが楽しいから……だから俺は、大会なんてのは重要じゃないし、グランドマスターにはならない。自分がやりたいチェスが出来れば、それで良い」
将来への期待に胸を高鳴らせながらチェスに対する想いを語るヴェンツェルの口角は、誰が見ても分かる程に上がっていた。
「その為には、チェスプレイヤーという肩書を維持しなきゃいけないけど、俺は嫌じゃない。むしろ好きだから続いてる。俺は、チェスが好きなんだ」
晴れやかな顔でそう言い切るヴェンツェルの目は、確実に未来へと向いていた。
そんな時、穏やかな面持ちの二人の横に、今の時期にしては少々着込んでいる厚着の男が近づいてきた。男の様子から自分らに用事があるのだと気づいたローデリヒがそれとなく挨拶をするが、ヴェンツェルは男を見て呆然としていた。
「ヴェンツェル、この人、知り合いか?」
「え? いや……」
返答が否定形だったことに拍子抜けしたローデリヒは目を丸くする。半開きの口で男とヴェンツェルを交互に見やるローデリヒを他所に、厚着の男が声を絞り出した。
「彼には、先日会ったんですよ。強い雨が降っていたのに、雨宿りもしないで、辛そうな顔で歩いていたところを、偶然……」
厚着の――あの時の蒼いコートの男は、言葉に詰まったか刹那、沈黙する。しかしすぐに喉を震わせ、曇天色の瞳をヴェンツェルただ一点に向けた。
「もっとも、彼とはそれ以前に……対局したことがあるんですけどね。そちらはどうも覚えていらっしゃらないようですが」
まるで早指しチェスを観戦している時のような衝撃を食らったローデリヒは、口角を上げるとコートの男に対し早口でまくし立てた。
「なんだと!? ヴェンツェルとの対局なんて、素晴らしい経験をしているじゃないか! 私も最近、彼と対局できたんだがボロ負けだったんだ、ハハハ。私が油断などするはずがない! それでもヴェンツェルは、自分の持ち味を活かして私に勝利した! 私にはとても良い思い出だ!」
無邪気に喋々と語るローデリヒに堪え、コートの男は「そうですか」と苦笑するが、一方でヴェンツェルは顎に手を当てて必死の思いで思議を進める。
「僕が彼と対局したのは10年前なんです。覚えてなくても仕方ないですよね」
「……ああ、分からない」
あの雨の日以外で見た覚えのない人物が、過去に自分と対局していると宣っていることがヴェンツェルにとって甚だ疑問であったが、ヴェンツェルもまた過去にどこかで会ったような気だけはしていた。結局あの日は思い出そうとして諦めてしまったが、コートの男から何故か威圧感を感じ、意地でも思い出さざるを得なくなる。
「けど僕は、どうしても貴方に話さなければいけないことがあるんです。ヴェンツェル・ツア・ミューレン……今、貴方に向き合うことが、僕にとっての“キースクエア”なんです」
直後、身を切るような冷たい風がヴェンツェルの頬を撫でた気がした。