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Episode-5
~ Key Square ~

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 【2020年、5月下旬】

 あの奇妙な雨の日から2日が経つ。その間ヴェンツェルは日々のルーチンワークを拒むほど憔悴し、ろくに動くことができなかった。ようやくベッドから起き上がったヴェンツェルは気分転換に散歩でもしようと外に出た瞬間、玄関の先ではやや久しくも見慣れた笑顔のローデリヒが出迎えていた。ヴェンツェルはあまりにも急な白髪親父の登場に不審がって、怪訝そうな表情を浮かべた。
 「頼むから閉めないでくれ!」
 懇願するローデリヒをよそにヴェンツェルは無言でドアを閉めようとしたが、その手をドアの隙間からガッシリと掴まれ見事に遮られてしまった。

 「どうした、風邪でも引いたのか? 昨日、娘が店に行ったんだが、君が居なかったからか心配していたぞ」
 相変わらずの強引な対応にヴェンツェルは機嫌を損ねたが、ひとつ溜息をついてから冷静に対応した。
 「ああ、悪かったな……」
 「だから私が代わりに来たんだ! なんだ、悩みがあるなら聴くぞ? きっと娘じゃ君の話を受け止めきれないだろう」
 「来んなよ」
 悪態をつきつつもなんだかんだローデリヒに促され渋々外に出たヴェンツェルは、会話をしながら屋外へと続く階段を降り、足先をいつもの酒場へと向けていた。



 「それで、もしかして君は本当に悩みがあったりする?」
 「別に……」
 結局、二人は初めて出会った酒場であるシュトラーセのテラス席で語らうことが一番落ち着くようだ。冷たい雨が降り注いでいた先日とは打って変わって、暖かいそよ風が吹く中で雑談を交わしていた。ヴェンツェルは椅子に腰かけて間もなく大きく溜息を吐き、ローデリヒは少し通ぶって白ワインを頼んでいた。
 「ゆすぐか? ハハハ」
 ローデリヒが頼んだ白ワインのグラスをヴェンツェルに向けた。ワインを克服する為にワインで口をゆすいでいることを揶揄されたヴェンツェルはギリッとローデリヒを睨みつけた。
 「やだね。え? やだよ、アンタと間接キスなんて冗談だろ、いやだ」
 「冗談なのは当たり前だ! 私にだって妻も娘もいるんだぞ」
 他人と顔を向けあって会話することすら珍しかったヴェンツェルも、今や冗談を交えて会話をすることも出来るようになっていた。それがたった一言二言であろうと、ヴェンツェルにとっては大きな進歩だった。

 ローデリヒはすぐに話題を変え、絶えず話を続ける。
 「そういえば、ヴェンツェルは何故チェスプレイヤーになったんだ?」
 「あ?」
 予想外だにしないタイミングで質問をされたことには驚いたが、ヴェンツェルはそんなありきたりな質問に対してひとつ間を置いて答えた。
 「……自分の限界を超えてみたかったんだ。普通にチェックメイトするよりも、最悪な状況(ツークツワンク)を超えて、逆転勝ちする方が面白いから」
 ヴェンツェルは過去に週刊誌でのインタビューで似たような事を何度か話していた。しかし受けた質問に対し事務的に返答をしていただけのインタビュー当時とは違い、今の言い振りには人間らしい感情と確かな信念がある。それを聴くローデリヒは微笑みながら相槌を打つ。


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この作品はフィクションです。
実在する人物や団体、事件や情勢などとは関係ありません。


 

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