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Episode-5
~ Key Square ~

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 あれから少しばかりの時間が経ち、夕闇が兆し始める午後5時。一日中降り続いていた雨は更に勢いを増していた。
 冷たい雨に打たれながら生気の感じられない様子で街路を歩むヴェンツェルの身体は寒さで震えている。軒下で雨宿りをする人達からは雨具を忘れた不運な人として憂わしげな目で見られるも、ヴェンツェルはそれらに意識を向ける余裕はなかった。

 ヴェンツェルはふと俯いていた顔を上げると、ピタリと歩みを止めた。視線の先には、傘を差した蒼いコートの男が、ヴェンツェルの行く手を阻むように歩道の真ん中に立っている。コートの男はヴェンツェルをジッと見つめていた。

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 単純に顔を見るだけなら1秒あれば十分だろうに、二人は訳もなく20秒も睨みあう。気まずい雰囲気の中、コートの男がぼそりと呟く。
 「……ヴェンツェル・ツア・ミューレン」
 ヴェンツェルは名を呼ばれたにも関わらず無反応を貫いた。ヴェンツェルはチェスに精通している者であれば誰もが知る人物であるため、赤の他人が自分の名前を知っていたとしてもおかしい、怪しいなどとは思わなかった。
 一方コートの男はというと、何かを言いたそうにしているが、口をもごつかせているようだ。
 「俺に、何か用か?」
 コートの男が一向に行動を取る気配がないので、今度はヴェンツェルから話しかけてみた。すると、コートの男は狼狽えながら目線を逸らし、内面すら隠すかの如く傘で身体を覆った。

 その時、コートの男が何かを呟いたが、途端に強くなった雨音で掻き消えてしまう。何かを言われた気だけは感じたヴェンツェルは、気になって咄嗟に聞き返した。
 「何か言ったか?」
 「い、いや……ごめんなさい、本当に」
 コートの男はヴェンツェルの語気に怖気付き、震えた声を立てながら足早に去っていった。

 辛うじて聞き取れた一言に対し疑問を抱いたヴェンツェルだったが、降りしきる雨の中で野ざらしになりたくない気持ちの方が勝り、出来るだけ急いで帰ろうと弱々しい足でようやく一歩を踏み出した。ザリザリと靴底を引き摺って歩くヴェンツェルの姿は惨めながら勇敢だった。
 道中、ヴェンツェルはどうしてもコートの男が忘れられず気掛かりでいた。男とは初対面のはずだが相手の反応を見る限り単なる自分のファンとは思えず、どこかで会ったことがあるような気がして仕方がない。
 「……分かんないな」
 考えることに夢中になり一度足が止まってしまったヴェンツェルだが、思議を諦めるように前へ進んだ。今のヴェンツェルから掻き鳴らされる足音や息遣いは、止めかけの雨よりも弱かった。


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この作品はフィクションです。
実在する人物や団体、事件や情勢などとは関係ありません。


 

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