
Episode-5
~ Key Square ~
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【2020年、5月中旬】
「あの時は……何もなかったはずなんだ。帰り道、夜遅くに小さな路地を歩いてた」
ヴェンツェルは対面に座るローデリヒにアンパッサン事件の顛末を話そうとしていた。
奇妙にもチェスプレイヤーだけが狙われたこの通り魔傷害事件は、特定条件下において相手の駒の隣を通過しつつ背後から捕ることが出来るアンパッサンというチェスの特殊な差し手にちなんで“アンパッサン事件”と名付けられた。ドイツ東部、延いてはヨーロッパ諸国で有名になったものの、未だ解決されていない。
そんな不可解な事件が起きてから10年という長い歳月が経っていたが、ヴェンツェルはまるで昨日のことのように鮮明に覚えていた。
悪天候を思わせないいつも通りの喧騒を他所に、店の隅では鉛色の雲よりも暗い真実が明かされようとしている。
「その路地には、君以外に誰かいたか?」
「正面からすれ違った男がいた」
ローデリヒはヴェンツェルの証言を聞いた途端、忙しない様子で鞄から手帳を取り出してページをめくった。ローデリヒの手帳は本来チェスの棋譜を書く為に使われてるが、棋譜が書かれているページの隣には走り書きで“アンパッサン事件”と書かれていた。
「報道の通りか……間違いない」
認識困難なミミズ文字で書かれたイタリア語は、メモを書いた本人であるローデリヒだけが理解できるものである。もしここで誰かに覗き見されたとしても、メモが読まれてしまうことはほぼ無いだろう。走り書きの文字を指でなぞり、自分が書いた内容とヴェンツェルが話した内容が一致している事を確認したローデリヒは、ヴェンツェルに話を続けさせた。
「そいつ、一度は通り過ぎたけど、後ろから物音がして振り向いたら……やられたよ。上から、大きく振りかぶって、その……」
ヴェンツェルは自身の左目を指差し、少々躊躇いながら口を開く。ローデリヒはヴェンツェルを慰めるように静かに呟いた。
「つらかっただろう……酷いものだ」
当事者から凄惨な状況をまざまざと語られるさまに堪えたか、ローデリヒの黒ビールを嗜む口が止まる。グロテスクな話題は得意ではないローデリヒは、口を尖らせ頭を掻きながら手帳を眺めた。