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Episode-4
~ Zugzwang ~

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 【2020年、5月中旬】

 ヴェンツェルは普段通りに酒場へ出向いていた。愛用しているチェスセットをテラス席のテーブルに配置し、白い駒を手の中で器用に弄ぶ。
 この光景は、これはヴェンツェルが対局をする前に決まって行う手癖であり、周りにいる酒場の常連からはちょっとした名所のようなものとして扱われている。
 しかし今日はいつもと違い、酒場にとって馴染みの薄い人物がヴェンツェルの対面に腰を下ろしている。

 それは、対面の席でヴェンツェルと会話をするローデリヒが居ること。1ヶ月前に初めて見たばかりの男が、今まで誰とも接しようとしなかったヴェンツェルとチェスボードを囲っているという状況は、酒場やヴェンツェルをよく知る常連客にとって物珍しい光景だった。

 「……気が散るんだけど」
 待ちに待ったヴェンツェルとの対局を目前に控えてはしゃぐローデリヒに、ヴェンツェルは呆れ気味に言い漏らす。
 「まぁまぁ、そう言うなヴェンツェル。私は君との対局を待ち望んでいたんだぞ」
 対してローデリヒは、本当に待っていたんだぞと言わんばかりに声を張ってみせた。

 「おっと、対局前にビールが飲みたくなってきたな。マスター!」
 勢いをそのままに、ローデリヒは酒場のマスターを呼ぼうとテラス席の窓越しに手を振った。店内に居るマスターに気づいて貰えるよう大袈裟に手を振ると、それに気づいたマスターが二人の席に向かってくる。
 「すまないマスター、ヴァルシュタイナーのビールはあるか?」
 「ありますよ。お持ちしますね」
 「ヴェンツェルは何を頼むんだ? やっぱりワイン?」
 ローデリヒはヴェンツェルの方を向くと、わざとらしく冗談めかして言う。
 「うるさいな」
 ワインが苦手なことをからかわれたヴェンツェルは不愉快になり、「そんなものいらない」と言いたげな態度でそっぽを向いて見せた。

 

 


 予想だにしなかった珍しい対局を待ち望む人々。そしてその人々の熱い視線がヴェンツェルに突き刺さる。普段であれば冷然と無視を決め込み、茶化しに来る常連客を軽くあしらうが、今回ばかりは何かと気になり心を落ち着かせることができなかった。
 群衆を眺めながらビールを嗜んでいたローデリヒがふと机上に目線を落とすと、先程まで悠然と駒を弄んでいたヴェンツェルの右手が小刻みに震えている。その様子を見たローデリヒは、乱雑に置かれたままの駒を一つずつ丁寧に並べながら、まるでヴェンツェルを宥めるかのように静かに語りだした。
 「実はね、私は他人と対局するのは3年振りなんだ。帰国してからは落ち着くまで色々あって……住まいのこととか、娘の学校のこととか……」


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この作品はフィクションです。
実在する人物や団体、事件や情勢などとは関係ありません。


 

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