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Episode-3
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 ヴェンツェルは偶然にも出会ってしまったローデリヒに、どこか観念した様子を見せながら物置へと案内した。
 すぐ近くでは“将来有望な娘さん”ことローデリヒの娘・ラーラが、先ほどヴェンツェルが綺麗に清掃したヴァイオリンを試し弾きしており、ラーラの優雅な演奏が自然と良い空間を創り出していた。

 ローデリヒが椅子に座ると、ヴェンツェルは壁にもたれかかり、閉ざしていたものを開放するように多くの事を説明する。
 「父さんからの紹介で、昔からこの楽器店で働いてて、ナータンさん……店長には、長いことお世話になってる。あの人、よく店を留守にするから俺が店番をしてるんだけど、言うほど客は来ない。用がない時は本当に暇だ。おかげで堂々とチェスをしてられる」
 カウンターの陰に隠すように置かれていたいつものチェスセットを見つめながら、ヴェンツェルが語る。実のところ、誰かを前にヴェンツェルがここまで長く話したのは生まれて初めてだった。

 ローデリヒは関心を持ちながら、相槌を打ちつつじっくりと聴いていた。
 「君は正しい事をしている。チェスプレイヤーと言えど、チェス一つで衣食住を整えられるのは希有だ。どちらかと言えば副業のようなものなんだ、こうでもしないと生きてはいけんよ。参加した全ての大会で優勝して多額の賞金を得ている、積極的でケチな天才グランドマスターでもない限りな」
 「確かに。小さい時に貰った賞金はとっくに空っぽだ。母さんに持ち逃げされたから」
 「うん……? そ、それはお気の毒で」
 ヴェンツェルの返答に違和感を抱きつつも、二人は会話を続けていく。以前二人が言葉を交わした時よりも会話が弾んでおり、ヴェンツェルの表情もいつもより穏やかなように見える。

 

 「あと、俺はグランドマスターなんて目指さない。今のままで良い」
 「なぜ? 君は稀代のチェスプレイヤーなんだぞ。ドイツを代表するグランドマスターになれるだろうに」
 「自分がやりたいチェスが出来れば十分」
 今まで目立つ行動をほとんどしてこなかったヴェンツェルらしい一言だった。ローデリヒはヴェンツェルがグランドマスターに興味がないことを聞き、難敵が居なくなったとわかって内心で胸を撫で下ろした。しかし同時に好敵手が減ったことを残念に思い、入り交じる感情から、曰くありげに笑った。
 「そうか、そりゃ良いな。君のことが少し分かった気がする。まるでインタビュアーになった気分だ」



 その後はチェスで互いに一手を送りあうような会話が続く。ローデリヒはヴェンツェルとの会話の最中、ちらと余所見をすると未だヴァイオリンの品定めにまだまだ夢中なラーラの様子が見えたので、「これは時間がかかりそうだな」と確信した。
 そしてまだ時間に余裕があることを確認したローデリヒはヴェンツェルの方へ向き直る。すると声のトーンを少し落とし、意を決してヴェンツェルにどうしても気掛かりだったことを訊いた。かの、アンパッサン事件についてだ。

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 「……アンパッサン事件は、どうして君が被害にあわなければいけなかったんだ?」
 そのローデリヒの声は、間違いなくヴェンツェルに届いていた。ヴェンツェルは視線を逸らし、僅かに開いている口から何かを言いたそうにするものの、返答に窮している様子。
 「どうでもいい……そんな事」
 しばしの静寂の後、ヴェンツェルは絞り出すような声で言った。


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この作品はフィクションです。
実在する人物や団体、事件や情勢などとは関係ありません。


 

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