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Episode-3
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 【2020年、5月上旬】

 深緑のカーテンが勢いよく開かれ、真っ暗だった部屋に日光が射す。
 ヴェンツェルは寝ぼけ眼な右目を擦りながら、洗面台へ向かった。冷水を容赦なく顔面に叩きつけ、左目を避けるように顔を洗う。途中、垂れてくる長い髪や着ていたワイシャツに水が掛かっても構わなかった。
 濡れた顔を拭うため、壁に掛けてあるタオルに手を伸ばすと、部屋の下の階から老人の声が聞こえた。
 「ヴェンツェル、店をよろしくな!」
 「はい」
 ヴェンツェルにしては大きな声で返事をした。しかし元気な明るい声、という訳ではなく、単に声量を大きくしただけの返事だ。
 「……店長、また留守にするのか」
 タオルで顔を覆いつつ、先ほど聞こえた声の老人に対してひとりごつ。

 洗顔を終えたヴェンツェルは、ワイシャツのボタンを閉め、程々に使用感のあるスーツに身を包む。そして眼帯を付け、帽子を被る。青年の頃から変わらない普段着に着替えると、ヴェンツェルは部屋の外に出て鍵を掛けた。他には特に何も持たず、手すりに掴まりながら階段を降りて行く。
 階段を降りた先は小規模な楽器店になっていて、ヴェンツェルは店舗と住居が一緒になっている建物――いわゆる併用住宅に居を構えていた。楽器店はアンティーク調の洒落た内装をしており、弦楽器と管楽器を中心に様々な楽器が取り揃えられている。
 「しばらく忙しくなるかな」
 店に入るや否や、またひとりごちたヴェンツェルは、やや古めかしいレジスターに貼られていた紙を見やる。


 ――
将来有望な娘さん 今日来る ヴァイオリン よろしくね。


 達筆な字でそれだけが書かれていた。店長が貼り付けたであろう紙の内容を把握するように、ヴェンツェルは傍に置かれていたいくつかのヴァイオリンに目を向けた。それぞれ異なる木材が使われており、値段もバラバラである。唯一共通していたのは、どのヴァイオリンにも被っていた軽い埃。
 ヴェンツェルは近くの引き出しからシルクのハンカチーフを何枚か取り出すと、埃が舞わないようにヴァイオリンを丁寧に抱え、そっと埃を取っていく。時間を掛け、一つのヴァイオリンを綺麗にしてみせた。残りのヴァイオリンも同じように扱い、隅々まで、徹底して清掃した。

 ちらとヴェンツェルは時計に目をやると、時刻は間もなく正午に差し掛かろうとしているところだった。ヴァイオリンの清掃を始めてから2時間程が経っていたが、その間に客は一人も来ていない。紙にあった“将来有望な娘さん”らしい人物も来ている様子はない。
 「……何か食って待つか」
 消え入るように呟くと、ヴァイオリンを保護する為に柔らかなクロスを掛ける。そして、昼飯になりそうなものを探しに自室に戻ろうとした時だった。


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この作品はフィクションです。
実在する人物や団体、事件や情勢などとは関係ありません。


 

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